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アイコン民話のなかの「水」のはなし

 

「水」にまつわるはなしはまだありました

 

六甲山のてんぐ(ろっこうさんのてんぐ)

江戸時代のはじめ、西宮の一帯は日照りが続き、川の水が枯れました。大社村の人たちは、雨乞いをして雨を待ち望みましたが雨は降りませんでした。『このままだと稲が枯れてしまう』と相談し、良元村(今の宝塚市良元地区)の使っている仁川から取水して、大社村に引くことにしました。
甲山からさらに奥、湯ノ口というところから樋を通し、岩にトンネルを掘ることにしました。しかし、水は良元村にとっても大切なもの、大社村の人が盗んでいるのを知って樋を壊しました。壊されては作り、作っては壊されのくりかえしに決着をつけるため、二つの村の人が集まりました。争いが始まろうとしたときにてんぐが現れて『水はみなのもの、分け合ってなかよくせよ』とつげました。人々はおそれをなし、良元村の人も分けることを認め、大社の村に水が流れるようになりました。このてんぐさんは、庄屋の中村紋左衛門だったということです。
広田神社大鳥居の裏に『兜麓底績碑』がつくられています。

毎年9月第1土曜日に広田神社で、紋左衛門の功績をたたえ、水に感謝する顕彰祭が執り行われています。

現在の湯ノ口出口 兜麓底績碑(広田神社)

現在の湯ノ口(用水の出口)

兜麓底績碑

 

 

山の井(やまのゆ)

日照りが続き水に苦労していた段上村、上大市村、下大市村の人たちの話です。天をあおぎますが、なかなか雨は降ってくれません。「水不足を救うには仁川の水を引くしかない」と村人たちは考えますが、大岩がじゃまをしていると困り果てます。けれども「子孫まで水不足が続く」との、庄屋さんの説得で水路づくりに励みますが、上ヶ原新田の人たちと争いが起こります。鎮守の森の八幡様に願かけをし、無事言い分が認められます。それからみんなで大岩に穴を開け、「山の井」ができあがり、三か村の田畑をうるおし、飲み水になりました

今も段上村、上大市村、下大市村の田畑は稲が育っています。また『命の水』といわれる井筋をまもりつづけた祖先の遺徳をしのぶため、「山之井顕彰碑」が段上・上大市・下大市の有志により建てられています。

山の井の碑
山之井顕彰碑

 

 

義民四良右衛門(ぎみんしろうえもん)

四良右衛門さんの住む村は周りの村から独立してみられず、苦しい生活が続いていました。日照りが続き、水不足で稲は全滅しそうでした。村の人は困ったときには何でも四良右衛門さんに相談しました。領主の殿様が見回りで通ることを聞いた四良右衛門さんは一大決心をしました。
殿様のかごの前に出て土下座をして「お願い文」を出しました。家来に打ち倒されてもものとせず、つぎつぎに「願い文」を出し、右手、左手と切り落とされて、血だるまになった四良右衛門さんをおいて立ち去りました。この四良右衛門さんの命にかえての願いごとによって、村に水がよく流れるようになったそうです。

毎年3月5日には「義民四良右衛門の碑」の前でその霊を慰めるお祭が行われているそうです。

義民四良右衛門の碑
義民四良右衛門の碑

 


 

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