「鳴尾の義民」はこんなはなし
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鳴尾(なるお)の義民(ぎみん) 今からおよそ四百年前のことです。 「ああ、水がほしい!」 「水がほしい!」 鳴尾の人たちは、何万べんもくり返し言ってきました。 このころ、この地方は、三年間も大干(かん)ばつにおそわれていました。 来る日も来る日も日照(ひで)りが続き、鳴尾村の田の稲は、葉がよじれて黄色くなり、今にもかれそうになっています。稲がかれて米がとれなければ、村人は飢えに苦しむことになります。村人たちは気が気では有りません。雨ごいのおいのりや雨ごいのおどりなどを、村あげてくり返しました。 しかし、空には何の変化も起こりませんでした。村人たちは、毎日空ばかりうらめしそうにながめていました。 鳴尾村の困り果てたようすとはちがい、村ざかいの枝川(えだがわ)をへだてた瓦林(かわらばやし)村では、新川(しんかわ)から水を引いていましたので、稲が青々と育っていました。豊かな水ではありませんが、鳴尾村の稲とはくらべものになりません。 そこで、鳴尾村の代表が、 「新川の水を少しでも分けてもらえないだろうか。鳴尾では今にも稲がかれそうで」 と、瓦林村にたのみこみました。 それに対して、瓦林村の代表は、 「こちらとて、こんなにも日照りが続く毎日であれば、日照りにたえぬくだけの見通しがない。水はどうしても分けるわけにはいかない。」 と、ことわりました。 鳴尾村の人たちは、白くかわいて一日一日とひび割れのひどくなる田で、やっと花咲いた稲がかれてゆくのを、そのまま見ていることができませんでした。 村人の一人が、 「のう、みんな聞いてくれ。瓦林村には悪いが、新川から水を引こうではないか。このままでは、このままでは・・・。」 と、言い出しました。 村人たちは、だれも「ごくん!」とつばをのみこみました。ことばには出しませんでしたが、村人たちは、みんな同じ思いでした。 みんなはためらっていました。 "水を引く" と言いながら、それは "水を盗む" ことです。お上(かみ)に知られたら死刑はのがれられないことを、だれもが知っていたからでした。 だれもが "水を引く" ことをためらいましたが、だれも水がほしくてたまりませんでした。 村人たちは昼も夜もなく集まって、考えぬきました。 このまま飢え死にする日を待つか、それとも、どんなことになろうとも秋の実(みの)りだけは残すか・・・。どちらかでした。村人のだれの頭にも、家族の顔が浮かび上がってきました。 年老(としお)いた村人の一人が、 「よし。水を引こう!瓦林村には悪いが、村の命が掛かっている。やるしかない。やろう!水を引こう!」 と、さけびました。そのことばで村人の覚悟は決まりました。 「よし、やろう。」 「やるしかない。」 全員が声を上げました。 さっそくその夜から、たくさんの村人がくわやもっこを持って集まり、枝川の川底をほり進め、新川へとつないでいきました。空の四斗(よんと)だるの底をぬいてつなぎあわせ、といを新川まで通したのです。瓦林村に知られないようにやみ夜にまぎれ、毎夜毎夜必死の作業でした。 水は、新川から枝川の川底をくぐり、鳴尾村に流れこんできました。サラサラとたるのといを走る水音を耳にした村人たちは、安どの胸をなでおろしました。水は、かわききり地割(じわ)れした田に走りこみ、かれ死寸前(すんぜん)の稲を生き返らせたのでした。 こんなことが知れぬはずはありません。 瓦林村の人たちがやってきて、鳴尾村の人たちと大げんかになりました。両方とも青竹をとがらせた槍(やり)を仕立て、ばげしい突き合いをしました。たくさんの人が死に、傷つきました。 このさわぎは、方々へ知れわたっていきました。 さっそく大阪城から両村に呼び出しがかかりました。 奉行(ぶぎょう)が鳴尾村の人たちにたずねました。 「おまえたちは、水を引くことが重罪(じゅうざい)にあたいすることを知ってやったのか。」 「はい、存じておりました。」 村人たちは、顔色ひとつ変えずに答えました。村人たちにとっては、もう覚悟の上でのことでした。 この話を聞いた関白(かんぱく)の豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、鳴尾村の人たちに同情して、 「おまえたち、水がほしいか、命がほしいか。どちらかひとつを特に選ばせてやろう。」 と、言いました。 鳴尾村の人たちは、 「百姓にとって、水がなければ、命がないのも同然(どうぜん)です。私たちの命と引きかえに、水をいただきとう存じます。水さえあれば私たちの村は生きのびることができます。どうか命より水をください。」 と、迷わず言いきりました。 村の将来を思う村人たちの決意を聞いた秀吉は、 「それでは、せっかく苦労して水を引き入れたのであるから、鳴尾村には永代(えいたい)にわたって水をやろう。そのかわり、この水引きに参加した者は、全員打ち首じゃ。よいな。」 と、申しわたしました。 "打ち首" と聞いても、村人たちはだれひとりとして顔色を変えることもなく、びくともしませんでした。 じっと考えていた奉行が、 「いったい空だるをいくつつないだのか。空だるの数だけ打ち首にする。」 と、言いました。 「二十あまりでございます。」 村人たちは、すかさず答えました。実際(じっさい)には二十どころの数ではありません。百メートル以上のといを作ったのですから、少なくとも百以上の数になるのですが、奉行も「なるべく犠牲者(ぎせいしゃ)を少なくしてやりたい」と思って言い出したことですから、やかましく聞きませんでした。 「それでは二十五個じゃな。よって二十五名の者に打ち首の刑を申しわたす。」 処刑(しょけい)されることになった二十五名の村人たちは、 「思い残すことはないか。」 と聞かれて 「鳴尾村の将来のために死ぬのですから、喜んで死ねます。」 「できれば、 "水をもらえる”という約束の証文(しょうもん)をください。」 と、だれもが言いました。 約束の証文は、二十五名が処刑される朝、奉行から鳴尾村の代表に手わたされました。 これまでたびたび干ばつに苦しめられてきた鳴尾村ですが、それ以後、どんな日照りがきても、稲は青々、すくすく育ち、豊かな実りの秋をむかえることができたということです。 「命はいらない、水をくれ。」とさけんだ村人たちをたたえた義民碑(ぎみんひ)が北郷(ほくごう)公園にあります。 |
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